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第217回 株式会社エッグマン [NOiD]レーベルプロデューサー永井優馬氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

永井優馬氏

今回の「Musicman’s RELAY」はテレビ朝日 利根川広毅さんのご紹介で、株式会社エッグマン、 [NOiD]レーベルプロデューサー・永井優馬さんの登場です。ゲーム会社に勤めるお父さんのもと、エンタメに溢れる家庭で育った永井さんは、高校時代にダンス部と軽音部を兼部し、文化祭やイベントを通じて次第に音楽業界を志すようになります。

そして、大学在学中にshibuya eggmanにバイトで入社し、現場経験を経てブッキングを担当。イベント[NOiD]を立ち上げます。また、友人の紹介でSUPER BEAVERと出会い、[NOiD]レーベル設立を経て、彼らを再びメジャーへと導きます。そんな永井さんにキャリアのお話からSUPER BEAVERとのエピソードまでじっくりうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)

 

毎週新作ゲームが自宅にあった少年時代

──前回ご登場いただいたテレビ朝日 利根川広毅さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

永井:業界歴で言うと正直そんなに深い関係ではない・・・と言ったら利根川さんに失礼かもしれませんが(笑)、チーフマネージャーをしているSUPER BEAVERを「ミュージックステーション」に出させてもらったのが、ちゃんとお話したきっかけなんです。Mステに最初に出演したのが実は2023年2月なんですよ。

──昨年まで出たことがなかったんですか?

永井:バンド自体は2025年で20周年ですし、この話をすると「今まで出てなかったの?」という反応を多く貰うんですが、彼らはメジャー落ちしてインディーズ時代が長かったですから。僕はそのインディーズのタイミングからマネージャーをやっていて、正直バンド歴は長いけどMステだけは手が届かない音楽番組という感覚がずっとありました。

──初出演後は、何度か出演されたんですか?

永井:そうですね。2月に初めて出させてもらって、その後、4月と6月のリリース時と、年末の計4回出させてもらいました。それ以前に利根川さんはライブを観に来ていただいていたので、ご挨拶はしていたんですが、テレ朝へ行ってちゃんと会話をしたのは2023年からです。その後、すごく仲良くさせていただいていて、先週も一緒にご飯へ行きました(笑)。実は利根川さんからは、ずっと「SUPER BEAVERって本当にMステ出たいの?」って聞かれていたんですよね(笑)。

──「実は出たくないんじゃないの?」と(笑)。

永井:そうです(笑)。初出演の時には主題歌を担当する『東京リベンジャーズ』という大きな映画が公開されるというのもわかっていた状態だったので、何もないタイミングの2月に初出演して、そこから一気に関係が深くなりました。ただ、それ以前に当時の「関ジャム」(現EIGHT-JAM)にボーカルの渋谷(龍太)が頻繁に出演させてもらっていて、Mステよりも先に「関ジャム」に出演していました。「関ジャム」も利根川さんがやってらっしゃるので、去年は利根川さんとお会いする機会がすごく多かったですね。このリレーインタビューの話をいただいたのも、メトロックへSUPER BEAVERが出演したときに、利根川さんとしゃべっていたら「あ、ちょうどいい奴いた!」みたいな感じで僕に話を振ってくれたんです。

──(笑)。

永井:「Musicman’s RELAY」は昔から読んでいた記事だったので「まさか自分が・・・」と思いましたし、しかもMステのプロデューサーに指名をされたわけですから「光栄です!」と言って、お引き受けしました。

──改めてよろしくお願いします(笑)。ここから先は永井さんご自身のことをお伺いしたいのですが、今おいくつですか?

永井:1988年生まれの36歳です。

──SUPER BEAVERのメンバーたちと同世代ですね。

永井:そうです。SUPER BEAVERで言うと上の代が2人いて、下の代の2人と同い年です。

──ご出身はどちらですか?

永井:生まれは横浜です。

──どんな家庭環境でしたか?

永井:いたって普通の家だと勝手に思っているんですけどね。ただ、父はゲーム会社に勤めていたので、広い意味ではエンタメ業界なんですよね。ですから、小さいときはゲームショーに連れて行ってもらったりとかしていました。

──お父さんがゲーム会社だとすると、家でゲームをしても怒られなかった?

永井:やりたい放題でしたね。一切止められないどころか、父は広告宣伝の部署にいたので、サンプル盤を他社さんと交換しあっていたんです。それを家へ持って帰ってきて、机にドンと(笑)。音楽CDは水曜日発売ですが、ゲームは木曜日なんですよ。それで木曜日になると最新作というか発売していない作品が毎週3つ、4つ家にありましたね。

──羨ましい・・・子ども時代のお父さんはヒーローみたいな存在だったんじゃないですか?

永井:ヒーローでしたね。「うち来たら新しいゲームあるよ」みたいな(笑)。

──ちなみに当時はどんなゲームをやっていましたか?

永井:小さいときだと「ストリートファイター」や「ロックマン」、そのあとは「バイオハザード」とか・・・ほかの会社のソフトもたくさんありましたね。逆に言うと、ゲームを全クリしたことがないんですよ(笑)。新しい作品が毎週来るので、全然やりこまないんですよね。

──常に新しいのをやらなくてはいけない。

永井:逆に触りだけやって「そのゲーム面白かった?」と父に質問をされるので「あまり面白くなかった」とか言うと、その意見を会社に持って行ったりしていました。

──友だちからしたらお父さんがゲーム会社って憧れですよね。

永井:そうですよね(笑)。しかも、おじいちゃんとおばあちゃんが駄菓子屋をやっていたので、おじいちゃん家に行ったら駄菓子食べ放題で、家ではゲームがあって(笑)。

──恵まれた少年時代ですね。

永井:この話をするとそう言われるんですが、実はそんなにゲームが好きじゃないんですよね(笑)。ゲームは家庭の中にあったものってだけで、「趣味なんですか」と訊かれたときに「ゲーム」って答えたことは全然ないですね。

ちなみに弟は大学の就職活動でゲーム会社から内定をもらって、そのことを聞いたときに「父親の後を行くんだ」と思ったんですよね。少なからずそういう家系でしたし、僕が音楽を選んだのも、近くにゲームというエンタメがあったからなのかなと、今になって思いますね。

 

高校ではダンス部と軽音部を兼部

──小中学校時代はどんな少年でしたか? 運動とかはやっていました?

永井:小1からずっとサッカーをやっていました。でも、途中でソフトボールのほうが楽しくなっちゃったんですよね。あるとき地元のソフトボールチームの選手が足りないということで「お願いだから、土曜日に来てほしい」と頼まれたんです。家の裏が公園だったんですけど、そこでよく野球をやっていたのを見られていて「あれだけできるんだから」と言われて、しょうがなく行ったらハマっちゃって「なんかこっちのほうが楽しいかも」と。それでサッカーの練習にはあまり行かなくなっちゃいました。

──暑い中、走るのが嫌だったとかそういうことではなく?

永井:そういうことではなかったんですけどね(笑)。

──時代的にJリーグが一番盛んな感じのときでしたね。でも、ソフトボールにいったんですね。

永井:ソフトボールの区代表に選ばれたんですが、上手いやつがいっぱいいたので、「どうせベンチだろうな」と思ってぼーっとしていたら、「お前、4番センターで呼ばれたよ!」と友だちに言われて、それで試合に出て。当時、みんなより背が高くなるのが早かったので体格も良かったですし、下手ってわけでもなかったですから選ばれたのかなと思うんですけどね。

──4番でセンターといったら中心選手ですよね。

永井:でも、すごく弱いチームでした(笑)。その後、中学に入ったときは迷わず野球部に入りました。

──それは頭を坊主にするような本格的なやつですか?

永井:はい、坊主にしていました。3年生のときには部長までやって

──ちなみに勉強はどうですか?

永井:勉強は普通だったと思います。

──高校も野球部ですか?

永井:高校は面談だけで受かったんですが、その面談では「野球やります!」ってもの凄くアピールしたんです。で、学校の入学歓迎会で先輩たちが部活紹介をしてくれたんですが、ダンス部の発表を見て「格好いい!」と思って、結局ダンス部に入りました(笑)。

──野球から急に・・・(笑)。永井さんはダンス部がある年代なんですね。

永井:僕が入ったときはダンス同好会でしたけどね。

──永井さんの世代だとどんな曲でダンスしていたんですか?

永井:男の子はみんなブレイクダンスにいくんですけど、僕はブレイクが全然できなかったんですよね。倒立とか苦手で、倒立できないとジャンル的に話にならないので(笑)。それで、横浜駅のダンススクールが月額1万円で受講し放題だったので、いろいろなジャンルを受けてみたら、ロックダンスがすごく体にハマって、そこから80年代のソウルミュージックとかをかけながらロックダンスしていました。

──かなり真剣に?

永井:一応、真剣に3年間やるんですが、2年生のタイミングで軽音もやりたいとなって(笑)、そこからバンドも始めました。実は中学3年のときにギターを触っていて、中学校の卒業記念会みたいなので、1曲だけバンド演奏をやったりしたんです。で、そのままバンドをやるつもりで高校に入るんですが、ダンス部に入って。

──軽音ではどんなアーティストの曲をやっていたんですか?

永井:ELLEGARDENとか10-FEETですね。

──その頃から、メロディックパンクみたいなのが好きだった?

永井:すごく好きでしたね。あとは女の子がボーカルをやるバンドに入ったら、SHAKALABBITSとかGO!GO!7188とか、アヴリル・ラヴィーンとかですかね。

──永井さんは元ダンサー兼ミュージシャンだったんですね。

永井:いやいや・・・(笑)。そこまでではないですけど、誰よりも文化祭で忙しかった自負はあります。全部に出なきゃいけなかったので。

 

大学入学と同時に志した音楽業界

──高校卒業後は大学に進学されたんですか?

永井:世間的には無名の学部が二つしかない大学で経営学部に入りました。そこに音楽ビジネスに関する授業が何項目かあって、「大学に行くんだったらただ勉強するのではなくて、音楽の要素とかもあったら面白いかも」と思ったんですよね。同じ学力のレベルの大学を見たときに、その授業が1個、2個あるだけでも面白そうだなみたいな感じで入ったんです。

──実際に通ってみてどうでしたか?

永井: 1年生の時だけ神奈川県の伊勢原まで行かなくてはいけなくて、2年生から東京のキャンパスに変わるんですが、1年生のときに東京でやっているその音楽ビジネスの授業を受けたいがために、それは金曜日の授業だったんですが、月〜木で伊勢原キャンパスでの単位を全部取って、金曜日はその授業だけを受けに東京のキャンパスへ潜り込んでいました。

──熱心ですね。

永井:熱心だったのはそれだけです(笑)。それ以外はまったく真面目じゃないので。

──その頃から音楽を仕事にしたい気持ちがあったんですか?

永井:大学1年のときからありました。その当時、横浜駅の居酒屋でキッチンのバイトをやっていたんですが、その面接を受けるときに「東京のキャンパスになったら音楽のバイトをなにかしらするので辞めます。1年限定ですけど、それでもよかったら採用してください」と言って居酒屋で働きました。

──音楽ビジネスに関する授業は、どんな感じの授業だったんですか?

永井:マガジンハウスにいた方がホスト役になって毎週、「今週はソニーミュージックの○○さんです」みたいに音楽業界人を講師で呼ぶんですよ。そこにはウドーの方やホットスタッフの方とか、そういった方々が毎週来て話してくれるんです。

──本物の業界人がやってくるんですね。

永井:そうです。ホットスタッフの人が来たら「フジロックをどうやって開催しているか」みたいな話をしてくださり、ウドーの人が来たら「どうやって海外アーティストを日本に呼ぶのか」みたいな話になり。どの方の話もすごく面白かったです。

──その講座を1年間受けた?

永井:正確には2年間ですね。その講座は2〜4年生の3年間のうち1年だけ受けられるんですけど、1年生のときに先生に頼み込んで、教室の端っこで受講して、提出しなきゃいけない宿題とかも提出するんですけど潜り込んでるから単位はもらえず、それで2年生のときに正式に同じ講座を受けたんです。

──1年のときは単位にならないのに受講したんですか。すごいですね。

永井:それだけすごく成績よかったんですけど、ほかの授業は全部寝ていたので全く駄目で(笑)。その講座以外の大学の記憶ってあまりないですね。

──やはり、高校時代の文化祭で盛り上がって楽しかったとか、そういう経験から「エンターテイメントの仕事をしたい」と思うようになったんですか?

永井:文化祭での経験は大きかったですね。あと、高校生のときからずっと通っていたリハスタがあって、スタジオに入らない日もそこに入り浸っていたんですが、そこのオーナーさんにずっと「リハスタで働かせてほしい」と頼みこんでいたんです。それで「将来なにやりたいの?」と聞かれて「フェスとか主催してみたいです」みたいな話をしたら、「お前のことはすごく好きだけど、そういう目標があるんならうちじゃなくてライブハウスで働いてみれば?」と言われたんですよね。

──そのオーナーさんはすごく真剣に考えてくれたんですね。

永井:で、伊勢原にいたらライブハウスで働くのはすごく難しいのはわかっていたので、2年生で東京の校舎になったら、渋谷のライブハウスに履歴書を持って行ってみようと思ったんです。

──そもそも、高校のときに「フェスをやりたい」と思ったきっかけはあったんですか?

永井:高校の卒業ライブを計画したときに、さっき言ったリハスタの方が横浜の24というライブハウスの平日を押さえてくれて「箱代20万円かかるけどやってみな!」と背中を押してくれて、学内外の高校生バンド8組を呼んでやったら、キャパ300のところに250人くらい来たんですよ。そのとき、すごく楽しくて「イベントを組むのって楽しいな」と思ったんですよね。

──そういった成功体験があったんですね。

永井:あと、当時「横浜ハイスクールミュージックフェスティバル(YHMF)」という高校生バンドのコンテストがあって、過去RADWIMPSや藍坊主とかを輩出しているんですけど、スタッフたちも全員高校生なんですよ。高校生が主催して出演者も高校生で。決勝大会は横浜アリーナで開催するんですが、それにちょろっとアコギ1本で応募したら、二次審査の60組ぐらいに残っちゃったんですよね(笑)。

──すごい応募数の中から60組に残った?

永井:バンドの中でソロが目立ったのか(笑)、それだけで通っちゃったみたいなやつで。そこで横浜の同い年の仲間がすごく増えたんですよね。今でもそのときに出会った仲間と一緒に遊んでたりもします。

──それは横浜アリーナの前段階ですか?

永井:横アリに行けるか行けないかの1個前ですね。そこには僕よりうまいアコギ1本の男の子がいて「これは勝てないな」と思ったら、本当にその子が横アリのステージに立っていましたね。

──でも、そこに残ったんだからすごいですよ。ちなみに一緒にバンドをやっていた仲間には出場することを言っていたんですか?

永井:いや、全然話していなかったですね。友だちとやっていたのはコピーばかりで、応募の期限までに送れる音源なんてなかったですしね。

──ということはアコギ弾き語りのオリジナルを送った?

永井:はい、なぜか(笑)。でも本当にちゃんとRECしたとかではなくて、スタジオにマイク1本立てて録音したやつを切り貼りしてとりあえず送ってみようと。

──なるほど。そういう体験を積みながら大学へ進んだので、すでにやりたいことが大体決まっていたと。

永井:そうですね。でも、一番大きかったのはやはりリハスタの人に言われた言葉だったなと今は思っています。もう全然会ってないですけど・・・久しぶりに会いたいですね(笑)。

 

3ヶ月間連絡し続けたshibuya eggmanへバイト入社

──たくさんあるライブハウスの中から、なぜshibuya eggmanに応募したんですか?

永井:友だちから「ライブハウスのチケットを獲ったんだけど一緒に行こうよ」と言われて行ったのがeggmanで、「渋谷にはライブハウスが何個もあるけど、ここはいい雰囲気だな」って思ったんですよね。最初は知り合い伝いで渋谷CLUB QUATTROとかに入ろうと思ったんですけど、全然バイト募集していなくて「じゃあeggmanだな」と(笑)。それで大学2年生になる前の19歳のときにeggmanへ履歴書を送りました。

──eggmanはバイトを募集していたんですか?

永井:eggmanもバイト募集は全然していなくて、それでも履歴書を送ったんです。でも、まったく反応がないので、「人事担当の方いらっしゃいますか?履歴書お送りしたんですけど」と電話をしたら、電話を取った人が「今、人事担当がいないです」と即電話を切られちゃうことが何回も続きました。その後、履歴書を何回か送りましたし、電話もしたけど全く相手にしてくれなかったです。今振り返ると「なんでそんなに入りたいと思っていたんだろう?」って感じなんですけど(笑)、多分相手にされなかったのがすごく悔しかったんだと思います。それで何回目の電話だったか忘れましたけど、ようやく「人事担当に変わります」と繋いでくれたんです。

──それだけ電話したから名前を覚えてくれたんですかね?

永井:毎回電話を取る人が「また、あの男の子から電話来ていますよ」と言ってくれた、というのを入った後に聞きました。

──直接押しかければよかったのに。

永井:そうなんですよね。なぜ、その手を使わなかったのか・・・(笑)。それで、やっと「人事担当です」と今の社長が電話に出てくれたんですが、「ごめん、バイト入ったばかりで入れられる部署もないし募集もしていないんだよね。履歴書送ってくれてありがとう」と言われたので、今から考えるとすごく失礼なんですが「会ってもないのに決めないでください」と言い返したんですよ。「超生意気だった」といまだに社長に言われるんですけど(笑)。

──(笑)。

永井:そうしたら「わかった。何月何日の何時に来い」と電話を切られて、面接に行ったら「面白い奴だ」と採用してくれたんですが、本当に入れる場所がなくて、入った当時は月1回か2回しか出勤させてもらえなかったですね。

──そんなにスタッフが溢れていたんですか?

永井:僕が電話とか履歴書送ったタイミングが、本当に何人か入れたすぐあとだったんですよね(笑)。

──最初に電話し始めてから直接会ってもらうまでに、どれぐらいかかったんですか?

永井:多分3か月ぐらい経っていると思います。今になって思ったら、チケットを買って行って話しかければいいと思うんですけど、そんな考えは当時なくて、無視されたのがすごく嫌だったので強気にいって(笑)。「会ってくれさえすればいける」という自信はすごくあったんですよね。

──eggmanのシフトに本格的に入れるようになったのはどのくらい経ってからですか?

永井:入って3か月目に1人辞めて、その枠に入り込めたので、そこからはフルで入れるようになりました。

──学校との兼ね合いはどうしたんですか?

永井:普通の大学生って、4年で就活をするから、大体3年で単位を大方取得するじゃないですか? でも、僕は4年間かけて単位を取ると決めて、授業は週3に全部まとめて、そうすると土日含めると4日間は丸々オフになるから、この4日間eggmanで仕事しようと考えました。それで週3大学、週4でeggmanみたいな生活を卒業までしました(笑)。

──それって滅茶苦茶忙しいですよね。

永井:そうですね。実家まで遠かったので、帰れなかったら漫画喫茶でシャワーを浴びてeggmanに行って、みたいな生活をしていました。その後、自分でイベントを組ませてもらえるようになってからは、朝5時まで打ち上げをやって、その足で7時に大学へ行き(笑)、まだ清掃のおじさんが清掃している時間に1限目の授業の教室に入っていって一番後ろの席で寝て、起きたら10時ぐらいで1限が終わっているみたいな感じでしたね(笑)。

──無茶苦茶な生活ですね。

永井:よくやっていたなと思います。

──実際、eggmanでの仕事は忙しかったですか?

永井:忙しかったですけど「夢にまで見た音楽の仕事だ!」みたいな感じだったんですかね(笑)。

── 一切迷いなし?

永井:なかったですね。仕事がつまらなくて辞めたいとかいう若い子って結構いるじゃないですか? でも、僕はeggmanに入って辞めたいと思ったことは1回もないんですよね。それには自信があります。もちろんつらいことはたくさんあるんですけど、つらくて辞めたいとは思わなかったですね。

──ライブハウスで働いている人って、みんなライブハウスが好きですよね。最後はライブハウスのステージの上で寝泊まりしたりとか。

永井:それ、やっていました(笑)。うちはクラブ営業も月に25日間ぐらいあるので、基本的に打ち上げは居酒屋へ移動しなきゃいけないんですが、渋谷の満喫でシャワーを浴びてとか、2つ目の事務所になったときはシャワールームがついていたので、洋服だけ自分の机に入れておいて、シャワーを浴びて学校へ行って、学校が終わったら会社に来て仕事してみたいな(笑)。家にはほとんど帰ってなかったですね。

 

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